Saturday, June 13, 2020

物理の才能

僕には、あまり物理の才能が無い。
高校に入ってすぐの物理の試験も、50点くらいで、非常に点数が悪く、理解できていなかった。
それ以降、物理は、練習問題が重要と気がつき、練習問題を解く様になり、点数は向上したのだが。

高校時代、僕は、大学に入る学部は、電気電子学科がいいと思っていた。

理由は就職先が関西電力に入りたかったから。
しかし、インフルエンザでのセンター試験失敗で、理学部になり、進路は未定となった。

うちの父の教えでは、大学は遊びに行くところだったので、進路のこともあまり深く考えていなかった。

京都大学の理学部は、理学部と言う部で、大学3回生で初めて専攻が決まる。
数学科、物理科、化学科、生物科、地球惑星科等々。
僕は漠然と物理科がいいと思っていた。
阪大に行った、久保君も松本君も物理行ったし。
物理の方が、偏差値高いし。

物理科に行くには、物理の科目を5科目以上、2回生の間にとらなければならなかった。

1回生の間から、物理の科目を受けていれば良かったのだが、物理の科目は推奨が2回生以降からになっていたので1回生の間は受けなかった。

僕は大学の講義自体、あまり好きではなかった。

1人ぼっちだし、よく理解できないし。
自堕落な生活のせいもあったと思う。

単位は、1回生の間は、70単位以上とり、優秀だった。

それも、けれども、要領ばかりで、なんとなく出席して取った単位ばかりだけど。
実験は先輩のを丸写しばっかりだったし。

2回生は、合計10単位くらいしか取れてない。

物理の講座が始まった時、確かに物理の講座を受けに学校に1、2度は足を運んだ。
でも、講座が分からないのだ。
物理の教科書も、岩波のや、簡単な解説本を買った。
でも、理解できないのだ。
練習問題も解かなかった。
ラジオを買って、高校時代と同じような勉強法を取ろうとしたこともあるのだが、全くやる気が起きなかった。

当時の僕は、想像していた大学の輝かしい生活とはかけ離れた現実になんとなく疲れていた。

サークルは、男たちはやっかみばっか。
バイトは全然うまく行かず、クビになり、勉強しなきゃだし。
ロイヤルホストでは、深夜バイトで、夜11時から朝7時までとか頻繁に働き、昼間は睡眠だったり。
恋愛は、竹本の束縛が厳しく、毎週土日は、竹本。
月曜の始発で、地元から、京都に帰ってくることも多かった。
平日は平日で、毎晩電話。毎日最低1~2時間くらい長距離電話していた。
生活費は、電話代だけで、月2万以上かかっていた。
勉強が身に入らなかった。

そんなこんなで、大学3回生の進路分離では、物理は無理で、化学になる。

僕は、プライドが高いので、父に、留年してもいいかと聞いたが、ダメだと即答され、化学に決めた。
竹本は、私は浪人するのにと恨みがましく言っていた。
(竹本もうちの母に医者を目指していると言ったばっかりに、医学部にどうしても行きたがっていた)。
理学部化学科は定員割れを起こすくらい、人気が無く、落ちこぼれもよく集まる。
(化学を目指している人間も当然、結構いるけど)。

大学3回生になると、少し生活が変わる。

まず、ロイヤルホストのバイトが竹本のせいで、辞めさせられたので、夜勤がなくなった。
バイト場も一品香になり、夜の3~4時間だけのお気楽バイトに変わった。
(お気楽バイトがいいと思った)。
サークルは、完全に行かなくなった。
竹本が、予備校を行くため、京都に1人暮らしをはじめた。
この後、強引になし崩し的に同棲になるのだが。
地元に通う必要はなくなった。

これらを受けてと、物理を落ちたことがショックだったのを受けて、3回生以降は、少し勉強を真面目にしようかと心がける。空いてるコマとか、物理の授業があれば、悔しくて受けたりもしていた。図書館にもよく行くようになる。


4回生になる時、研究室が決まる。

僕は、この時初めて研究室なるものがあるのを知ったのだが、どこにしようか考えて、有機の方が就職できそうと思って、有機物性を選んだ。この固体物理の分野を選んだのは、当たりだと思う。

で、研究がはじまって以降楽しくなって、少しずつ、勉強していくようになる。

まぁ、院試も、落ちたけど。
院試は、今まで解けてた問題も、忘れてしまったり・・・。
まぁ、第一種奨学金が貰えるくらいの順位には居た様だけど・・・。

今は、会社も辞め、無職だけど。

サークルの春原さんが追い出しコンパで言っていた。

『人生なんて、ランダムウォーク』。

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